恩師に感謝しつつ(長文)

 高校時代の恩師(高校三年間の担任でもあり、フルートの先生でもあった)が最近、天国に旅立たれたということを知りました。先生は、とても穏やかな方で、いつも笑顔でニコニコ、「ウンウン」とうなずきながら話を聴いてくれる、安心感を感じる、そしてまじめで努力家な先生でした。

私は公立の音楽科に通っていたのですが、当時、先生は公立高校の音楽の教諭をしながら、音楽科の教諭もしていたのであり、フルートの練習をしながら公立高校の教諭としての仕事をこなすのはきっと大変なことだっただろうと思います。私たちは「五期生」だったのですが、先生は音楽科ができたときに、この高校の教諭として着任して、音楽科を受けもつということにとてもやりがいを感じながらも、きっと練習時間が捻出できない中で、そして演奏活動までは時間が取れないということについてはきっと何か思っていたのではないかと、最近の先生とのやり取りでふと思うことがありました。

私たちの代が卒業して、先生は、他校(普通科)の音楽教諭として赴任し、勤務される中で、リサイタルを開かれたことがありました。終わったあと楽屋に行ったときの、演奏を終えてほっとして、でも反省することばかり、と言いながらも先生の嬉しそうな顔が思い浮かびます。演奏もっとしたいんだな、とその時思いました。

今年の初め、先生に年賀状を出しましたが、突然、先生から電話がかかってきて、年末に急病で入院していたと打ち明けられました。「間質性肺炎」という病気で、一時は生死をさまよったほどだったけれども、奇跡的に生かされたと。そしてその経験によって、自分が神に生かされているということに立ち帰ったと言っておられました。そのことを、私が牧師もしているということでだと思うのですが、どうしても伝えたいと思って電話をしてくださったのです。高校時代の恩師からの突然のキリスト者としての「証し」に、正直なところ戸惑い、どうして私に?と思ってしまいながら、会話をして電話を切りました。ただ、先生が私のような「一生徒」に、こんなことを話してくれるなんて、なんと不思議な神の導きだろう、と思うことと、なんと謙虚な先生なんだろうか、と本当に恐れ多く思いました。自分が「先生」という立場だったら、こんな話を自分の「生徒」にできるのだろうか、と。先生の謙虚さ、正直さに感心し、昔から決して偉ぶったところのない先生だったなと本当にすごいことだなと思ったのでした。

電話ではうまく対応できなかったように思えたので、後日、ハガキを書いたところ、大変丁寧なお手紙をいただきました。そこにはこんなことが書いてありました。

「18歳のときに○○教会で洗礼を受け、大学途中、病気のために教会に通えなくなってから40数年の歳月が経ちます。以来、心の奥底に本心を隠したまま、人にも自分にも曖昧な態度を続けてきましたが、今回の難病を得たことで短期間のうちに人生観がすっかり変わってしまいました。」

「年末から年始まで入院していましたが、その間、家族、兄弟、音楽科一期生にまで信仰告白をし、心が定まりました。これまでの私は人を恐れていましたが、これからは主に従うつもりです。フルートに関しても己の拙さを嘆くのではなく、主から頂戴したものと心得、病気のためあまり吹くことはできませんが、残りの音楽人生を過ごして参ります。」

「岡田さんが留学され、信仰を得、牧師の道を歩まれていらっしゃるのは、正に主の導きとしか思えません。学生時代から良い演奏をなさっていらっしゃいましたが、演奏活動と両立しておられる姿勢にお聴かせ頂いたコンサートでの演奏とともに感銘を受けた次第です。どうぞこれからも益々、ご活躍くださいますようにお祈り申し上げます。」

ご本人の承諾を得て載せているわけではないのですが、先生が辛い難病を経験してから思ったことの、その言葉の一つ一つに心を打たれました。

先生もそうだったのか。人を恐れながら、そして自分のフルートのことも拙いと嘆いたりしながら踏ん張ってきたのか、と。同じ信仰者として、私も、先生のように「主から頂戴したものを」大切に、そして音楽人生を全うしたい、と心底思いました。

牧師をして、音楽活動をすることは私にとって喜びですが、ときに人の目を恐れることがありました。それはいつもそうなのです。両方とも中途半端と思われているんじゃないかとか。それは人からの視線なのか、それとも自分で自分がダメ出しをしちゃう癖なのかもしれませんが。こんな励ましを、大変な中にある先生から受けたことは、一生忘れないだろうと手紙をいただいたときに思いましたが、本当に忘れることはないです。

過去のコンサートに先生が来てくださったとき、ふと、先生も教会に行っているのですか、と聞いたことがありました。その時、先生は、実は自分も洗礼は受けているけど、離れてしまったんだよね、と言っていました。

手紙をいただいたあと、何度かメールのやり取りをする中で、先生のやさしさは、キリストを信じ、神がおられるということが根底にあってのではないかと思いますと書きましたところ、

「確かに私の心にはイエスさまがいらっしゃったのだと思います。何十年もの間、こだわり続けたのは、主がいつも私に呼びかけてくださったのだと理解しております。私は病により、教会を離れ、今再び病を得て教会に戻ろうとしております。フルートを吹くことの意味も自ずと変わりつつあります。」

「全員がパウロになれる訳ではありません。主は、一人一人に相応しい道をご用意されたのではと今頃になって実感しております。」

と返信いただき、先生の心のまっすぐさに、本当に感銘を受けました。

最期にやり取りをした数カ月前のメールでは、毎日音楽を聴いておられること、そしてその中で私がYoutubeにアップしていたものを気に入って聴いていると・・・(マタイ受難曲のAusliebe)。

高校時代は、反抗期でもあり、めちゃくちゃ生意気だった私を、けなすこともなく、暖かく見守ってくれたことを思い起こし、今更ながら感謝です。自分の生徒の演奏会に呼ばれれば、こまめに足を運んでいたことを知り、先生は本当に謙虚で優しい方だったんだなと思いました。

音楽を奏でることにおいて、楽器の技術はとても大切だと思うけれど、それと同じように大切なことが、「謙虚さ」「愛」「正直さ」「感謝」etc.といった人間としての在り方ではないだろうかと、この歳になって、ことさらに思わされることが多くなりました。こういうことは音楽においてだけではないのでしょうね。先生のような存在を忘れることなく、感謝しつつ、自分も尊敬する人々に倣って生きていけたらいいなぁ~。あくまでも自分らしく・・。

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